庭師
庭師(にわし)とは、庭を造る人のこと。
古くは役石(やくいし)、立石僧(たていしそう)などとも呼ばれた。
庭石、樹木や池、水路から芝などを含めて、庭を一つの造形空間として設計施工、製作する人で、樹木などの植物の生育を管理し、定期的に剪定したりする管理の仕事もする専門家である。
平安京造営と造園
平安京造営にあたり、鴨川が東に寄せられたが、このため旧河川敷には豊かな伏流水があって、これが地泉の水源となり、造園に必要な水が豊富になった。
貴船石、白川砂なども造園材料が豊富であった。
その上、寒暖の差が激しいという気象条件が、美しい庭木を育てるために好都合であった。
以上のような条件が京都において造園技術を発展させた。
庭師の歴史
奈良時代
石室の造営や石棺の製作、池溝の開作や築堤など大規模な土木工事に、土木技術者として携わっていた。
7世紀、仏教伝来とともに、庭園の技術も百済より伝来した。
平安時代
平安時代末期になると、当時の知識人であった僧侶のうち、作庭に長けていた僧侶が庭師として、造園を行った。
その僧侶を、役石(やくいし)、立石僧(たていしそう)と呼んだ。
名前の由来は、「樹木の立て入れ」、樹木を垂直に立っているように植えることからきている。
庭園の地割、石組、滝・遣水、植裁等の技法について著された「作庭記」が残されている。
鎌倉時代
「作庭記」を採り入れた、臨済宗の禅僧夢窓 疎石(むそう そせき)は、京都の西芳寺、天龍寺の庭園の作庭に関る。
また、大徳寺大仙院や龍安寺方丈石庭等日本を代表的する枯山水庭園を作庭する。
室町時代
室町時代の善阿弥など「山水河原者」が現れ、庭を造る人物の身分が呼び名にされた。
茶の湯の普及と共に、造園は一般町衆の間にも広がり、庶民は庶民なりに庭を暮らしの中に取り入れ、生活の場に生かしていった。
江戸時代
江戸時代には、回遊式庭園の形式が発達し、徳川幕府は作庭責任者を将軍家御庭師とし、御庭掛などを定め、庭園管理に当たらせた。
コメント